大塚商会アルファーズが休部となり、次のチームは新たに立ち上げたプロチーム。
ゼロからのスタートであった。
4月初旬に宇都宮に引っ越ししたものの、何もない状態であまりにもひどかった為、上に辞めると告げたほどひどい状態でのスタートとなった。
ゼロからのスタート
いざプロチームとしてスタートするにあたって希望ややる気、意気込み、プレッシャーもあって、いざ栃木県は宇都宮市に引越しをした。
プロトレーナーとしてスタート
それまでは治療院を開業しながら、大塚商会のトレーナーを行なっていたが、さすがに拠点を移すので、この時に治療院を閉めてトレーナー一本で生計をなりたてる決断をした。
宇都宮には大塚商会アルファーズの時に来年のことも含めてホームゲーム開催を数回行なっていた。
またよく栃木県の小山市にある白鴎大学にて合宿を行なっていたため、栃木県には馴染みがあった。
埼玉に住んでいたのでそこまで遠くはなかったのもすんなり引っ越しができた。
栃木側からは4月から来てほしいとのことで引越しをしていざスタートと思っていたが、何も連絡もない、事務所に行ってもスタッフが1人いるだけ、何も進んでいない状況であった。
全ての関係者の中でも栃木県外から来たのが私が最初であったことがより不安を感じた。
さすがにこれはひどすぎるという状況であり、事前に聞いていたことと全く異なっていた。
正直、プロチームはまだまだほんの一握りのバスケ界、こんな状態では収入源の確保自体怪しいと思ってしまった。
当時白鴎大学のコーチをしていた方が、大塚商会のアドバイザーをして栃木ではアシスタントGMになる方から全力で引き止められたので仕方なく、頑張っていくこととした。
その時決まっていたのが、ヘッドコーチ、トレーナー、選手3名の状態で、チーム名すら決まっていなかった。
連日会議で誰が何をするのか、役割分担から始まった。
体育館探し
栃木に行く前に体育館はすでに決まっているとのことで安心していた。
やはり練習の拠点は必須であり、活動するにあたり、とても重要なことである。
そのため、体育館が決まっていることは一安心であった。
しかし・・・
実際に宇都宮に行くと体育館は確保できていない、探してもいない状態であった。
さすがに怒りと苛立ちが芽生えたが、この人たちに任せてもダメだと思い、チームで使う活動拠点は自分で探すこととなった。
その頃、フロントスタッフを希望してトップリーグでプレイしていた女性がいるが、ということであったがマネージャーがいないため、採用してもらった。
それが現在横浜でも一緒に活動している宮本さんである。
宮本さんとはその頃から一緒に仕事をし、一緒に体育館を探すために車で回ったことを覚えている。
どこの体育館も一長一短であり、プロチームが練習するには、問題が生じてしまう環境である。
ゴールが木のボードであったり、ゴール下のエンドラインがすぐ壁であったり、場所がかなり遠かったりとなかなか良い場所がなかった。
結局無料で借りることも含め厳しいため、遠方であるが清原の体育館であれば安定して利用ができるようになった。
練習開始
選手3名とトレーナー1人でスタート
チーム名も決まっていないところからのスタートであったため、選手はもちろん揃っていない。
大塚商会からの3名と白鴎大学からの1名でスタートする形となった。
ただ最初は合計3名とトレーナーで、トレーニングとシューティングなどの個人スキルを行うことから始まった。
私の強みとプレッシャー
栃木は大塚商会のライセンスを継承したため、JBL2からのスタートであったため、JBL2のレベルは3年間経験しているので、どういった強化をすれば良いのかは分かっていたので、そこは強みであった。
ただしJBL2は他にプロチームはなかったため、バスケットに集中できる環境ということで優勝しなければならないこと、上の組織のJBLに昇格しなければならないというプレッシャーは強く感じていた。
応募がすごかったトライアウト
新設のチームであったため、選手の獲得がかなり厳しい状態であった。
リーグ主催のトライアウトも開催され、bjリーグとJBLのどちらリーグに行くのか、選手も選択肢が広がった時代となっていった。
選手にとってはプロ選手になれる可能性、夢を実現できるチャンスが広がり、良い時代になりつつあった。
今までは大学のトップ選手しかなれなかった時代から変化が起きていた。
トライアウトの応募が多かった
栃木もチームとしてトライアウトを行うことなり、一時テストとして私のフィジカルテストを実施した。
3年間JBL2でリーグに参戦していたので、最低限どの程度のフィジカルが必要かは理解していた。
やはり大学で活躍していた選手は簡単に行えることも、一般の方では鍛え方が違うので顕著に現れるのである。
シーズンを迎えるにあたって最低限5月の時点でこのレベルにいなければ、とてもロスター入りする必要はない(JBL2では戦力外)ということである。
テストで行なったことは、いくつかあるが、一番のメインは5kgのメディスンボールをコントロールできるかである。
単純に5kgのメディスンボールをリングに向かってシュートをしてもらうということである。
シュートの仕方は自由である。なぜこれで判断できるかというと、全身を使う運動連鎖ができるかを判断できる。
またパワーがあるかが簡単に見破れる訳で、運動連鎖ができないとパワー発揮ができないため、まずトレーニングが開幕まで間に合わないということとなる。
すぐに習得できる選手もいるかと思うが、そもそもパワーがなければコンタクトも含め通用しないし、怪我をしてしまうといった具合だ。
大塚商会に所属していた選手はこの辺りはこなせた訳である。
トライアウトの参加申し込みは予想以上に多く、80人近くいたかと記憶している。
本気でプロチームに入りたいものから、思い出作りのもの、おじさんまでなんでもありの状態である。
その中には契約するかしないかの最終判断のため、こちらから参加してもらいたいという選手もいた。
応募人数が多いこと、さらに選考しなければならないので、フィジカルテストと短時間の試合形式で一次審査として絞り込まなければならない。
この中で5kgのメディスンボールの私の基準をクリアできた選手が5名のみであった。
個人的にはまともにコントロールできた選手は1名のみであった。
さすがに12名ほどは残さなければ2時審査でゲーム形式を行えないので、実施し結果2名の合格者となった。
それでも当時は主力として活躍できるレベルではなかったので厳しい世界であることと、プロ選手になりたいという方が多く存在していたことに驚いた。
トライアウトという形を取らなければならないことも現状厳しい形であったかと思う。
それでもトライアウトするからには選手を獲得しなければならない現実もあった。
チームスタッフ
新設のチームはスタッフに予算を確保することなどできない。
予算があるなら、良い選手を獲得するために選手に予算を確保する。
そのため、スタッフは最低限の構成となる。
ヘッドコーチ、マネージャー、トレーナー兼ストレングス、通訳の4名である。
1人体制のトレーナー
大塚商会の時は選手も多かったこと、企業で予算確保もできたことで、トレーナーは2名体制で行えていた。
メインの私と、バイトトレーナーとして私のアシスタント、さらにビデオ撮影のバイトを兼務するアシスタントもいたのでマンパワーは良い環境であった。
栃木は2名体制が作れない、そのため1人での業務となる。
トレーナー1名でストレングスを兼務することは現実的ではない。
しかし仕方のないことで、フル稼働して対応した。
トレーニングを午前中に行い、練習し、練習後にそのまま体育館でケアという流れであった。
ボランティアとして関わったトレーナー
夏ころある女性が練習見学させてほしいと連絡があった。
トレーナーの専門学校を卒業し、病院勤務している女性であった。
トレーナーの育成
毎週木曜日であれば練習に来れるということで、ボランティアで関わってもらった。
彼女はテーピングを少し巻ける程度で知識もまだまだの駆け出しのトレーナーといった感じであった。
とは言っても選手の足のテーピングをボランティアに任せるわけにはいかない。
万一何かあった場合、私の責任であり後悔することを考えると現実ではないのである。
こちらもボランティアで来てもらっている以上、練習後に選手のケアが終わった後、1時間以上時間をかけテーピングやリハビリ、トレーナーとしての考えなど教えていた。
多分こちらの誠意も伝わったのだと思う、ほとんどの木曜日にチームに参加してくれて、メキメキと力をつけて戦力になるレベルに到達していた。
彼女自身かなり勉強したのだと思うし、努力したのだと思う。
トレーナー1人体制の限界を感じていたため、社長にお願いしてアシスタントを翌シーズンから雇ってもらえるよう手配した。
そして彼女をスカウトし、病院を退職してもらい、スタッフとして関わってもらった。
全てをこなしたハードワーク
私の場合、自分自身バスケットをやっていたトレーナーであったため、スタッフも少なかったこともあり、様々な業務を兼務していた。
練習メニューもウォーミングアップからシューティングドリルや分解練習は担当し、ディフェンスドリルなども対応していた。
色々な業務をこなさらなければならない現実
また大塚商会時からスカウティングも担当していたので、栃木でも対戦チームの個人の分析は私が担当していた。
肩書きはないもののアシスタントコーチも兼務していた状態であった。
練習もその後はモップがけから、審判も1人で行なっていた。
今では笑い話であるが、審判はエンドからエンドまで常に走っているので、選手より早く走っていることも多々ある。
スタミナがつくわけである。
ただ、ヘルニアからの足の痺れはひどい状態は変わらなかったので、痛みがありながらも審判をやらなければならず、おかげで1つのヘルニアから3つのヘルニアに悪化していた。
練習で審判するために、座薬を入れて行なったり、ブロック注射で痛みを軽減したり、かなり過酷な状態であった。
その後選手のケアをし、トレーニングにも対応し、帰宅したらスカウティングでビデオ編集して、DVDにデータを焼く。
怪我をしたら病院に連れて行き、対応しなければならない。
チームの収入源の一つとして、バスケットのスキルとストレッチなどのケア方法のDVDを製作し、一般に販売もした。
その当時ビデオ編集できる人材はまだまだ少なかったのでそういった面でも機能していた点もある。
パソコン系にも強かったのでそのあたりのスキルも生かすことができた。
求められたのは優勝のみ
新規参入ではあるが、JBL2では唯一のプロチーム。
バスケットに専念して活動しているわけであるから、優勝するのは当たり前だろという空気感が栃木県内にも漂っていた。
会社としても成績を残さなければならないため、優勝することが目標であり、使命であった。
プレッシャーから身体に異変
チーム自体で勝つことが当たり前とされていた。
そんな重たい空気もあるし、上手くいかないことは多々ある。
試合に勝利しても「やったー!」とはならず、「フゥー,ひと安心...」といった具合である。
負けた際の危機感は半端ないものであった。
仕事量がとてつもなく多かったこと、睡眠時間も平均4時間程度であったかと思う。
その頃はプレッシャーで夢でも良く試合している夢を見ていた。
寝て起きると疲労感がドッと出るわけだ。次に起こった現象は寝れなくなったしまう睡眠障害である。
寝てもすぐに起きてしまうのだ。
疲労とストレスで体に異変が
そのため練習ではまた大丈夫ではあるが、頭がボーとしている状態で夕方頃になると疲労が出てくる。
車移動であったため、体育館から自宅に戻る間に帰宅ラッシュの渋滞があるため、睡魔に襲われることもよくあった。
車内の音楽をガンガンにかけてしのぐのである。
その次に起こった現象として、顔面の痙攣である。じっとしていると顔が勝手にピクピクと動いている。
初めての経験である。
トレーナーをやっていても顔の筋肉や反応は無知であるため、顔面の麻痺(三叉神経麻痺)になるのではないかと心配することが多かった。
シーズン終了するまでの3ヶ月間は毎日のようにピクピクと顔が痙攣していたと思う。
その次に起こった現象は歯ぎしりである。
寝ている際にかなり強く食いしばり歯が折れるのではないかと思っていた。
歯をギシギシやるわけではなく、強く食いしばり、前歯が折れるのではというほどであった。
これが一番の恐怖であった。
寝ている自分はコントロール不能であるためどうすることもできない。
不思議なものでシーズン優勝した瞬間、全ての現象がピッタリとなくなったのである。
身体に大きなストレスがかかっていたのだな、とつくづく思い知らされた。
それと同時にメンタルの強化が必須であるなと実感し、自分の成長へと繋がった。
その後の人生でもっと大きなプレッシャーがかかるケースもあったが、顔面の痙攣はあるものの、歯ぎしりまではない。
メンタル強化とストレス回避は自分なりに行えているかと思う。
自分自身の対応としては熱くなりすぎず、冷静さを保つことが大切だと思う。
アクシデントに際して、熱くなりすぎると判断力が低下し、正しい判断ができなくなってとまう。
いわゆるパニックにならずに、しっかり対応できるようなメンタルにしておくことが、結果としてストレス回避にも繋がっている。
今では想像できないほどの観客
新設のチームは全てが初のことであり、県民に認知されることが本当に大変であった。
プロチームといっても実績がなく、観客動員は厳しいものであった。
ホームゲーム開催でも寂しい状況で2,000人動員することが大変であった。
それでも地道な活動の積み重ねによって徐々に応援してもらえるチームになっていった。
やはり地域密着での活動が本当に大切であり、ゼロから始まったプロチームに関われたことは大きな財産となり、別のチームでの活動に対しても自信と経験から様々な状況に対応できる能力が身についたと思っている。
運よく昇格できることに
このシーズンのJBLはチームの昇格・降格という入れ替えがなく、JBL2からJBLに昇格するためにはまず優勝することが必須であったが、リーグとしてはJBLのチーム数を偶数にしなければならないという暗黙のルールがあった。
そのため、経営的にも安定して、優勝しても、もう1チーム昇格できる状況でないとチームは昇格できないという高いハードルがあった。
JBL2のチームは基本的に企業チームで、JBLのチームほど予算や強化をしていないため、試合数も少なく、当時JBLに上がるというチームはなかった。
そのため、会社としては優勝して、経営的に安定しているということを全面的にアピールし、奇数でもリーグを行なってもらう必要があったのだ。
会社は経営黒字とJBLでも戦える予算見込みが課題となり、チームは優勝することが目標として活動していた。
そんなある日、JBLのOSGがJBLのリーグを脱退し、bjリーグに参戦することが決まった。
そのため、実質JBL2から昇格を望んでいたチームは栃木だけであったため、翌シーズンのJBL参戦が確定となった。
しかし、チームとしても優勝して昇格することが最善の形であるため、さらにプレッシャーがチームのスタッフと選手に降りかかってきた。
苦しかったレギュラーシーズン
この年強豪チームが2チームあった。千葉バジャーズと豊田通商であった。
我々はこの2チームになかなか勝利することができず、苦戦していた。
結果レギュラーシーズンは3位という順位でプレイオフに進出した。
リーグ終盤さらなるチームの強化として、チームでビデオミーティングとケアをできるスペースを確保してほしいと考え、アパートの一室を借りてもらった。
当時の会社の事務所はかなり手狭で選手全員が入れるスペースはなかったためであった。
その部屋でビデオミーティングし、選手のケアも十分に行えるようになった。
ストレングスとしても、さらなるスタミナ向上としてバイクでの対応を実施した。
練習での疲労のため、走らせてしまうと怪我に繋がるので、足の関節部分には負荷をかけずに行えるバイクがもってこいであった。
JBL2で日本一
チームの環境改善、選手のモチベーション、スタミナ向上で、プロチームとしての強みである相手を終盤で突き放す走力のスタミナがつき、プレイオフでは勝てていなかった豊田通商を圧倒的に勝利し、ファイナルでも千葉バジャーズに圧倒的大差でリーグ優勝することができた。
大差で優勝できたので、試合途中から勝利を分かち合えたのでその時は嬉しさはもちろんあったが、やはり個人的感情はひと安心というか、ミッションクリアという感覚でしかなかった。
その時のチームスタッフ、選手には感謝しかない。
そしてチームを支えてくれたフロントスタッフ、まだまだ駆け出しのチームをサポートしてくださったスポンサー、ファンにも感謝している。
ここまでシナリオ通りに進んだことが奇跡的なことであるが、全員が常に努力し、全力で臨んだことで結果がついてきたのだと思う。
これで翌シーズンJBLとして胸を張って参戦できることとなった。
JBL参戦によりチーム編成の大改革が行われた2008年のBREX
【優勝】設立3年目にして手に入れた日本一となったプロバスケチーム