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医学の道は程遠く、住み込みの新聞配達奨学生の学生時代【青春期】

2020年2月24日

私の人生の転換期として高校で怪我をしたことで自分の方向性が決まり、医学の道に進むこととなった。しかし、足の痺れで立ちションすらできない者が満員電車で通学できるわけがない。経済的にも厳しい状況であった為、住み込みの新聞奨学生での生活を決意した。

足の痺れで満員電車の通学は無理と判断

日本指圧専門学校への入学が決まり、ひと安心していたが、入学金と授業料の問題があった。

腰の治療で金銭的な負担をかけてしまった為、教育ローンで先払いしてもらったものの、どう返済するかといったところである。

また腰の影響で足の痺れがひどく、1分くらいの立ちションですら維持して立っていられない状態である。

そんな状態で満員電車で通学することはハッキリいって不可能と判断。

求人雑誌を読みまくる毎日であったが、新聞奨学生という制度があることがわかった。

新聞奨学生は新聞配達をしながら学校に通い、奨学金をもらえるシステムである。

また家も提供して頂けることと、奨学金も返金しなくて良いというシステムである。

また運あって学校の近くにある朝日新聞の販売店にかなり遠い形であるが、友達の友達の友達がいた。

色々と話を聞けたことは良かったことで決断できた。

また私の通う学校は半日授業のスタイルであった為、夕刊の配達も問題ないこと、同じ学校の先輩と同級生に同じく新聞配達の奨学生がいたのも心強かった。

とにかくこれで学費に関してはとりあえず心配がなくなり、奨学金で教育ローンは返済できた。

地獄のような新聞配達の毎日

3月末から住み込み生活が開始される。私はバイクでの配達となり、広範囲の配達エリアであった。

初めは配達ルートを覚えることから始まる。バイクでの配達を自転車で追いかける。かなり体力が必要であった。

朝3時に起きて、販売店に行き、新聞が到着したら新聞の間にチラシを差し込む、その後新聞を半分中継地点に持っていく。

再び戻ってバイクに山積み。バイクはもちろん乗ったことがない。

ましてやスーパーカブはギヤがある。初めは転倒ばかり、壁に突込んだこともある。

3時すぎから7時頃まで朝刊の配達、15時から18時までが夕刊の配達、毎月20日から翌月10日までが新聞代の集金、そして週に1度の拡張(新聞勧誘)がある。

地獄の生活が始まった。しんど過ぎて夜逃げをする者が後を絶たない仕事であった。

3年間で12人以上は夜逃げでいなくなったかと思う。

腰も痛いし、毎日2部練習をしている状態である。20時には寝ていた事が多かった。

とにかく疲労で学校生活もボヤっとしいた。慣れるまでの3ヶ月は本当にしんどく、集金が憂鬱であった。

10日から20日までの10日間が天国に感じる日々であった。

休みは週に1度だけ、専門学校時代から仕事に追われて、ノルマに追われて本当に苦学生であった。

学校までは近かったのでありがたかったが、近すぎるのも悪さが影響した。

朝刊の配達から帰宅するのが7時頃、学校へは8時40分に行けば良い。

その為中途半端な時間があり、二度寝してしまう。ここで起きるのがとてもシンドく、必要ない授業はよく学校もサボっていた。

サボったといってももっぱら睡眠であるが。

ただし学校も遅刻と欠席に対してはかなり厳しいのでその辺りは進級には問題ない程度で対応した。

テストも赤点は取ったことがないのでこの辺りはうまくこなしていった。

一番の要因は赤点になると補講と追試でお金を取られる事であった。

奨学金とはいえ一応自分のお金であるため、無駄な出費はしたくない、まして留年すれば奨学金ではまかなえなくなるわけだ。

この辺りは現実主義で自分を最低限コントロールできていたと思う。

個人的には学校よりも新聞配達の業務に重きをおいていた。

やはり仕事である為、しっかりとしなければならない。

その為新聞配達の方はかなり評判が良かった。同じ学生の中でも優秀であった為、新聞販売店の4畳半の寮生活から9月にはアパートの一人暮らし(6畳+K、風呂なし)に昇格した。

これはかなりの高級待遇で感謝しかないし、実力・実績で評価されるプロ思考を学んだ点である。

しかも学校まで徒歩3分の位置である。(しかしこの近すぎるのがさらに二度寝での寝坊に影響した。)

この頃には新聞配達にも慣れてきて、クラブチームでバスケットもできるゆとりが生まれていた。

毎日強制的に2回新聞配達を全力でしないと終わらない、新聞まだ届いてないと連絡が入ってしまうのだ。

重たい新聞をたくさん持って階段を昇り降りしていた、体力の向上と筋力の向上とヘルニアの痛みが改善していったのである。

要因としては階段の昇り降りで腸腰筋の強化と、階段を降りる際に一段抜かしで降りていたことで衝撃に対して強化された点でないかと思っている。

もちろん新聞配達の際は腰を守るためにゴムタイプのコルセットをしていた。

仕事とお客様というノルマが自然と身体の強化に、奨学金をもらっているため逃げられないという精神面の強化がされたと思っている。

この辺りは高校や大学での特待生と同じ心境なのかと思える。

精神的に弱かった私が新聞配達という仕事を通して肉体的にも精神的にも強化されたのだと思う。

ただし本来の目的である医学の道は学校の授業のみとかなり出遅れていることが現実であった。

クラブチームで全国大会

土曜日の夜はクラブチームの練習で埼玉まで帰る形、夕刊を配達してそれからバスケットをやる。

終わったら皆で食事をして終電で帰り、少し仮眠して朝刊配達する。

その後試合でまた埼玉へといった生活スタイルとなっていた。

冬頃には足の痺れはあるもののバスケットも普通にできるレベル。

さらに新聞配達しているので体力的にも問題なし。翌年にはクラブチームの全国大会に2年連続で出場できた。

人間耐性がつくもので慣れると難なくこなせていくのでレベルアップしている。

クラブチームの試合は一日に2試合行うことが多かったため、さすがに新聞配達後の試合はきついわけである。

そこで週一の休みを調整してもらい日曜日に設定するわけであるが、これがかなりの損なのである。

なぜならば日曜日は朝刊のみで夕刊がない、そのため通常であれば実質2回の新聞配達を休めるのであるが、日曜日の休みであると1回しか配達を休むことができないため、かなり損しているわけである。

当たり前であるが、他の人は日曜日に休みが入ると損した気分になるわけで、それを私は自ら変えてくれとお願いする。

相手からしたらラッキーなわけである。

私はそれでも土曜日の夜練習して、そのまま試合に臨める方がありがたかったので致し方がないといったところである。

新聞配達はもちろん給料も出るのであるが、時給計算するとかなりのそんであったのかと思う。

それでも高校時代が不完全燃焼で終わったバスケットができるだけで幸せであり、楽しい時間であったし、バスケットをやっていた経験がトレーナー人生で大きくプラスに働いていると思う。

集金と勧誘のノルマに追われる月末病

新聞配達の仕事は配達だけではなく、集金がかなりの労力であった。

当時は引き落としのシステムもなかったので、ほぼ全員集金する必要があった。

学校が終わって夕刊までの間や夕刊後に集金するため、各家をまわる。

東京の下町であるため、家が密集していたり、一方通行もかなり多い。

バイクの場合配達業務では郵便局は許可が出るが、新聞配達は許可が出ないため、一方通行がかなりの障害となっていた。

集金の際に給料日前に行くと怒られることもよくある、居留守を使って出て来ないことも多々ある。

常にいない家もある。夜逃げして新聞代を踏み倒す者もいる。

回収できなければ全て自腹となってしまう。

集金も全員回収できると手当てが出るので、その手当てはもらいたいし、回収できないことを言えない辛さ。

回収できないときは自分で立て替えて支払うことは多々ある。

夜逃げしたものを次の転居先まで回収しに行ったこともある。

よくわかったねと当たり前のように言ってくるが、こちらも数ヶ月踏み倒されたらたまったものではない、学生でお金もないわけであるので。

今だに集金で回収できなかった夢を見たりする。

それだけ心の奥底に残っているし、諦めないという事を学んだと思う。

新聞の仕事としてもう一つ嫌な仕事があった。拡張と言って新聞勧誘をする仕事がノルマであった事である。

週に1度のペースで全員強制で出動しなければならない。

新聞販売店としては購読者を増やすことが売上につながり、収入につながるためである。

専門の勧誘する者がいるのであるが、実際に新聞配達する者が勧誘する方がお客さんも顔なじみであったりということもある。

ただし専門の勧誘する方は契約した際のマージンが配達者よりも良かったので、学生にはお小遣い程度ですむため、コスパが良いことが理由である。

さらに別の新聞販売店の応援拡張といって、全く関係ないエリアで勧誘しなければならないことは、正直飛び込み営業と一緒なので効率が悪く厳しい限りであった。

私の場合飛び込み営業よりも常日頃から自分のエリアを観察して挨拶やマナーなどサービス的な部分で勧誘していたためである。

そのためお客様から本社に連絡が入り、本社から新聞販売店に連絡が入り、ある時所長から呼び出された時、クレームかなと思ったら、逆に褒められると言ったことが起こった。

当時平成初期の話であるので現在と異なるかもしれないが、新聞勧誘にて学生でも映画や展覧会、歌舞伎などのチケットをもらえていた。

新聞は固定で継続するよりも半年交代で読売新聞と朝日新聞を交互に繰り返し契約していくことで、サービス品をもらえる率が高くなるのである。

ビール券や洗剤なども含めて3ヶ月契約、6ヶ月契約、12ヶ月契約とあるが6ヶ月契約が一番いろいろな特典が頂けるのである。

私はこのシステムが疑問に思っていた。固定で長期間、朝日新聞だけ購読していても何ももらえないからである。

そのため、集金時にいろいろな固定客に各種チケットを配布してより愛読してもらった方が良いと考え実行していた。

そう言った行動によってお客様が感心して本社に連絡してくれたのであろう。

不思議と口コミで評判も良く、専門の勧誘者も認める営業スタイルを確立していた。引越しがあるとまず挨拶に行って専門の勧誘者や他者新聞店よりも早く契約できることも多々あった。

勧誘の良い点は実力主義で契約を取ったぶんだけ報酬が増えるので、学生の底給料者にはやりがいがあった。

そのため他の学生よりもかなりの収入をアップしていたかと思う。

2年目になると学生レベルではお金にゆとりもでき買い物など楽しみが増えた。

新聞配達で一番嫌なことは雨である。雨が降ると作業効率が圧倒的に悪くなるので本当に天敵であった。

そのため天気予報よりも新聞の天気図を毎日見ていたので、雨の降るタイミングなど天気図から判断できるようになっていた。

雨が降ると新聞は濡れてしまう。濡れないようにすることは不可能である。

お客様もある程度は我慢してくれるがやはりクレームは避けられない。ビニール袋に入れる手間はかなりの時間のロスとなる。

一番は晴れていたが途中から雨が降るとそれまでのポスティングした新聞が濡れてしまうので、この数時間に雨が降るか降らないかの判断が難しい。何度も失敗している。

この辺りからクレーム処理や成功体験、実力で収入が変わってくるプロ感覚な部分も学べた。

ゆとりから遊びの常習

2年目の冬あたりからかなり身体も慣れ夜遊びしても対応できるようになっていた。

通常は0時に寝て3時に起きる3時間睡眠、朝刊後に1時間半睡眠すれば大丈夫な体になっていた。

新聞配達での遅刻は年に一回くらいはあったが基本問題なかった。

その頃ボーリングが流行っていたのでよく上司と行って、飲んで遊んで1時間だけ睡眠して新聞配達と行なっていた。

その代わり学校で寝てしまう。特に指圧の実技の時間は公に横になれるので睡魔との戦いであった。

新聞配達での上司は私に勧誘の仕方、ボーリング、人間関係、遊び、競馬学などいろいろな事を教わった。人生のまさに師匠である。

いつもご馳走してくれて焼肉やお寿司など今まで実家で食べていた物が偽物確定できるほどカルチャーショックのレベルであった。

この上司のおかげで自分の人間の基礎が築かれ、人に美味しいものをご馳走すると心が惹かれる事を学んだ。

そして数時間だけ寝ればとりあえず働ける身体を得れたことは今後のトレーナー人生でかなりプラスとなった。

試合の遠征中は選手の治療をすると寝る時間が3時間ということはよくある事である。

日本代表でのトレーナー活動中は平均4時間睡眠が続く、大会になると選手スタッフのおにぎりを作ったりもしていたため、さらに連続して寝れることは限りなく少なく、1時間半寝たら起きてお米を炊いての繰り返しであった。

新聞配達時の睡眠パターンがかなり役に立ったことは間違いない。

テレビを捨てて国家試験勉強漬け

3年の夏まで遊びと仕事にエネルギーを使い、本来の目的である医学の勉強はしていない。

さすがにこれではいけないと思ってスイッチを入れた。

テレビっ子であった事、ダウンタウンのごっつええ感じなどテレビが面白すぎて勉強できない自分がいたため、思い切ってテレビを処分して勉強するスイッチを入れた。

国家資格である、あん摩マッサージ指圧師の資格を取るという事、特に私の時から国家資格になる初年度であったため試験対策も未知であった。

とにかく勉強、この間はバスケットも一旦お休み、新聞配達・集金・勧誘は仕事なので最優先、とにかく試験に向けて可能な限り勉強する習慣を作って行った。

中学時代に勉強する習慣ができると知識が入る事で楽しくなる経験はできていたので、いかにスイッチを入れ継続して習慣になるかが自分の課題であることは分かっていた。

国家試験は問題にもよるが基本的に60%取れれば合格になる試験である。

自分自身との戦いであるため、競争でないことはありがたいことであった。

80%取るための勉強では不合格になる可能性もあると思い、100%取る勉強をすれば間違いなく合格できると考えた。

またこの知識は今後医学の道で絶対的に必要な学問であるので、やって損はないし、知らない方が問題であるため、勉強に励むことができたと思う。

それでも87%くらいしかできなかったと思っている。

試験が終わった際は本当に解放された感覚になった事を今でも覚えている。

かなりストレスが溜まっていたのだと思う。みんなでカラオケで歌いまくったのを覚えている。

とても濃かった3年間

私にとって新聞奨学生で住み込みで働きながら学校に行ったことは人生の中でもっとも辛い体験であった反面、自分自身の成長を同学年の友達よりもはるかに大きな財産となったように感じたし、現在プロトレーナーとして活動できている源であると感じている。

腰痛という怪我から克服、学費も自分で調達し、仕事と学業の両立、やめられないという精神力と根性、バスケットで全国大会出場、勧誘する事で収入を増やせるという実力主義のプロ精神、集金のノルマに追われる精神力と諦めない気持ち、上司としてのあり方、後輩を育てる方法などなど様々なことが勉強できたと思っている。

無事国家資格も取得し、新聞配奨学生も卒業できたのである。

新聞奨学生では優秀な学生に対して海外旅行をさせてくれる制度があった。

私は3年制の学校であったのでアメリカ・カナダ旅行に行ける権利をえれたが、大学生の秋休みの時期であったため、学校の出席から行くことができなかった。

そのため2年制の対象であったハワイへは行かせてもらうことができた。

海外は行ったことがなく、高校時代に県の選抜チームで中国に遠征する予定であったが、天安門事件の為、実現されなかったのである。

初めての海外がハワイ旅行で、しかも全く知らない他の新聞販売店の者との旅行である。

初めて顔をあわせるのに新聞奨学生というだけで仲良く旅行できたのは今では考えられない不思議な体験であった。

現在は新聞購読者も時代の流れから減少し、さらに日本人で新聞奨学生の希望者は激減しているとのこと。

モンゴルに住んでいた際に、モンゴル語の先生が日本の留学に際し、朝日新聞の新聞奨学生になろうとしていたのを見てとても懐かしく思ったのと、とても過酷な新聞奨学生は現在の日本人では希望者がいなく、海外の留学生に頼らなければならないのかと思うと寂しい気持ちになった。

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