雑記

怪我で挫折してから医学の道が開けた【少年時代】

自分自身が医学の道へ進むきっかけは、高校2年の冬に突然腰椎椎間板ヘルニアになった事で、選手として厳しい状況となり、治療する側の道へ進むこととなった。医学の道で30年経過し、そろそろトレーナーとしても終活の時期が迫っているのかと考える日もある。

プロチームの現場にいると12-15名程度の選手にしか関わる事ができない現実があり、自分の持っている技術や知識、経験などを世の中に還元していければと思っている。

そのためこの「ジャンクトレーナー」というブログを作り積極的に情報発信をしていきたいと考えている。

また自分自身の再勉強の場と記録を残す形としてエネルギーをつぎ込んでいく決心ができた。

暇な方は見て頂ければ幸いである。

物心ついた時には剣道少年

家族揃って剣道一家で、父は県協会会長もした8段範士の名剣士でよく雑誌で紹介される方。

母も3段を持っている剣道女子。高校時は短距離でインターハイにも出場している。

そんな親を持っているため期待値は高かったであろう。

男三兄弟の末っ子として生まれ、物心ついた時には剣道をしていた。

でもスパルタですから正直好きではなかった。

ただ末っ子は兄を見て育つわけで自然と強くなる。

道場ではもちろん市でも常に優勝していた。

正直年々やりたくない想いは増していった。

兄がミニバスケットボールをやるようになると、家にリングを設置したため自然とバスケットボールにも興味が出てくる。

剣道は小学5年生時に中学生にも大会で勝っていたり、県大会ではベスト8が最高であった。

本気で取り組んでいればそれなりに強かったであろうと思っている。ただやりたくないのに無理やりやらされていた事が大きかったと思う。この辺りで親の反面教師を学んだのかなと思う。

ミニバスの最初の試合は2対110で大敗

小学6年生の4月からミニバスに入れるようになった。

兄は5年生からやっていたので、なんではいれないんだと思っていたが、昔は学校単位のチームで先生のボランティアコーチ、そのため先生の転勤によって変化した時代。

一つ上の学年の先輩までは5年生から入れたミニバスチームも我々の時から6年生からになり、コーチしてくれる人もいなかった。

4つ上の兄の同級生(高校1年生)がコーチを引き受けてくれた。

練習は土曜日のみの2時間だけ。

女子は5年生からやっていたためもちろん勝てない。

5月に出た最初の大会では2対110のスコアで大敗した。

それでも相手は2点取られた事でボコボコにされている。

その時の記憶はゼロですね。何が起こっているのかも分からないレベルであった。

その時の対戦相手は県大会で3位のチーム。同じ市に県の1-3位まで独占していた市である。

そのほかにも強豪校だらけであった。そのため市の予選を突破すれば県大会の上位に食い込めるという目安は立てられた。

最初の試合で大敗し、剣道ではそれなりのレベルであったため勝負根性に火がついた。キャプテンでもあったので。

指導者はほぼいないに等しかったが自分たちで練習メニューを考え、兄に教えてもらったこともあった。

その時に考える力が身についたと思っている。

常に練習メニューとフォーメーションなどチームの皆と試行錯誤していた。

その甲斐あって10月に大敗したチームと再戦した際は1Qは8対8と善戦できた。

結果は10対48でやはり負けはしたが、努力することで自信と実力差を埋められた成果は実感できた。ミニバスでは市で5位になれたのが最高で県大会には出場することはできなかった。

中学で先生に見捨てられ自力で練習

中学に入ると男子は全員校則で坊主頭、バスケ部はバッシュを履けるのは2年生から、学校の上履きで練習していた。

スラムダンクの桜木花道状態であった。

体育館の練習は週に1度きりしか使えない。しかも女子が強かったため男子は基本外での練習。

1年生時は先輩のイジメでボールはほとんど触れない。

ひたすら走ること、相撲をとることが毎日の日課。フットワークだけ一緒にやってあとは声出し。

はっきりいって上手くなるわけがない。顧問の先生もサッカー専門でバスケットはど素人。

唯一練習できるのは体育館を使える日は1年は外コートが使えた事。

あとは女子の練習相手でうまい1年生は先輩女子の相手をする習慣があったのでその時ばかり体育館で試合のみ行えた。

自分たちの代になり、先生に完全に見捨てられた。

理由は我々が悪ガキであった事、練習試合でケンカしていたので仕方ないところはあったものの、そもそもサッカーがやりたいので土日は自分がサッカーやりに行ってしまう始末であった。

我々は勝ちたい想いはどの部活よりもあったため、女子の先生にお願いして土日の練習も監視してもらっていた。

事実上顧問がいない状態で、女子の先生がお情けで関わってくれていた。

女子は県大会に行くので歴代男子よりも強かった。

我々の市はやはり中学でも強く県大会で1位2位4位ベスト8と県の上位に入っていた。

なんとか市を突破して県大会に出場したい想いは強く、昼休みも練習し、放課後ゴールのある公園でも練習していた。

その甲斐あって小学生の時に2対110で大敗したチームに勝つ事ができた。

我々は悪であったが硬派でバスケに勝ちたいタイプ、相手は完全にグレて練習しないタイプであった。

努力は大切だということを学んだし、自分で練習や戦略も考えていたのでバスケIQは高くなったと思う。

しかし所詮コーチ不在のチームであったので本気で指導されているチームには組織力で及ばない。

最終的に市の予選を突破することはできず県大会に出場することは叶わなかった。

ただ引退後に行われたOB大会では県2位のチームに勝つ事ができ良い終わり方ができたと思っている。

いきなり強豪校での高校生活

高校へは絶対に行きたい高校があった。バスケット部が強いこと、全国にも出場し県では常に強豪チームであったこと、兄2人がその高校に行っていたことである。

偏差値的に全く届かないレベルであった。兄2人は頭が良く、私は勉強嫌いで頭が悪い。

ただ高校では強いチームに入りたかったので、部活を引退してからはとにかく勉強しまくった。

人生で一番勉強したのが高校受験の時である。12時間は勉強していたかと思う。

平日でも学校から帰宅したら常に勉強していた。その甲斐あって成績は徐々に上がって行った。

最終的には勉強すると理解できるようになり、楽しくなっていた。唯一の救いは数学だけは公文で得た頭脳により、学年でもトップレベルにいたことである。

そのため数学に関しては苦労なく理解できたのは救いであったと思う。

無事希望の県立高校に入学できた。

高校に入ったらすぐにベンチ入りさせてもらったのは大きな経験となった。

中学時代に女子の先生にお願いして一度練習に参加させてもらった。

女子の先生の恩師がその先生であったためである。

その恩は忘れなく、大人になってからお会いした際にお礼はできた。

兄も所属していたので、弟ということで馴染みもあったのかもしれない。

高校では県大会に出場することは当たり前で簡単に県大会に出場できたことに違和感を感じていた。

さらに良かった事は2つ上の先輩の代は弱かった事である。

県のベスト8に入っていると地区大会は免除される。

弱かったため地区大会から試合があったため、自分も出場する機会が多々あった。経験と自信がついて行った。

見ることも経験でいろんな選手チームの分析も行なっていた。

自分が今どのレベルであるかという確認も自己分析していた。

先生の考えが先輩のリバウンドしなくていいから自分のシュートを打ちなさいと行ってくれた事はとても良かった事であり、先輩が帰った後も練習に励んでいた。

1つ上の先輩の代からスタートで試合に出場させてもらい、県大会で3位、関東大会(B)で3位にもなれた。

1つ上に折茂さんがいてよく試合をした。埼玉県はその代は強くIHベスト8に2校とも入っていた。いつも僅差で敗れていた。

自分の代でキャプテンとなり、腰椎椎間板ヘルニアに

1つ上の代から春の選抜からウインターカップに変わり、当初は県予選のほか、関東予選もあり、その後本戦となっていた。

我々の代は期待されていた為、先輩は引退し、県の予選で優勝し、IH出場の2チームと上位4チームでのトーナメントとなった。

そこでIHベスト8のチームと互角に戦い2点差で敗れてしまったものの県内で衝撃を与えたように感じた。

キャプテンをしていた私も含め主力が中学時代県大会すら出場していない無名選手が多かったので正直メンタルが弱かったことが事実である。

勝って当たり前のチームとも接戦となったり、無駄にファールしてしまい思うようにプレイできないなど不甲斐ない形が続いた。

やはり自信がなくなると悪循環となり、積極性もなくなり、新人戦ではくじ運もなくベスト8に終わってしまった。

チームとしても先輩からも何やっているんだといった状態である。個人的にはかなりプレッシャーを感じていたかと思う。

その為自主練習もかなり行なっていた。

そんなある日ジャンプシュートを打って着地した瞬間ビリっと腰に激痛が走った。

それまで腰が痛くなった経験がないのでどう対応していいのかも分からなかった。

翌日朝起きると痛くてまっすぐ歩けない手すりに掴まりやっとの思いで階段を降り、母に事情を説明した。

しばらく接骨院にも通っていたが全く良くならない。

くしゃみをすると激痛に襲われる。週末には他県のトップチームとの練習試合があり、コーチに伝えてもお前がでないと話にならないと言われ、腰がまっすぐにならない状態で無理やり出場した。

その結果さらに悪化して全くプレイできなくなってしまった。

先生もその後あの練習試合にやらせなければ良かったと反省していた。

時代的にトレーナーもいなければアイシングをする文化もなかった。

体幹を鍛える習慣もなかったわけであるから仕方がない。

さらに悪いことに整形外科に行ったらあなたは一生運動ができないと言われる始末。

本気で死のうかと思ったこともあった。

それだけバスケットボールをやりたかったし、チームを全国大会に出場させなければという思いもあった。

手術することも考えたが、父がヘルニアであったこと、当時の医学では手術しても50%レベルで十分再発することはあるとのこと、復帰まで半年以上かかる為手術することで引退することと同じことと判断した。

そうはいってもサッカーボールも蹴れないし、ジャンプもできない、立ちしょんの間もじっとしていられない、夜は痛くて全く寝れない、痛み止めを飲むという習慣すらない。

ブロック注射も変化なし、かなりひどい状態であった。

今までたくさんの選手と関わってきているが今だ自分よりひどいヘルニアの状態の選手は目にしていない。

時代的にMRIもない時代、代々木にあったオリンピック選手などが通うスポーツ整形に行っても改善されない、というか全国レベルでない選手は相手にもしてもらえなかった。

阪神タイガースのトレーナーで腰痛専門のクリニックに愛知県まで行って治療と指導を受けた。

TVで紹介されたハンドパワーの霊媒師の方にも1回20万円かけてみてもらっても変化なし。

今思うと詐欺師じゃなかったのかなとも思っている。

とにかく親にはお金と時間と心配と本当に申し訳ないと思っていた。

その為その後の進路では全て自分で費用を出している。

結局高校時は思うようにプレイできなかった。スイミングに通いリハビリがてら強化していたもののやはりプールでのトレーニングと実際のバスケットは大きく異なっていることを学んだ。

春の大会ではかろうじて試合に出場はできたものの練習不足とパフォーマンス低下で満足できるプレイはできずディフェンス面ではなんとかなったが、オフェンスで点取り屋であったのが全くシュートタッチが狂っていた。

その時は試合に出れたことで満足ではあった。そんな状態でも県の選抜選手に選ばれていたことには感謝しかない。

しかしテスト週間で練習がなく、部活再開の日ウォーミングアップなしでいきなり練習となった。

その為そのダメージが残っていたのだと思う、翌日のフットワーク時に再びギクッとなり体が曲がってしまった。

自分的にこれはヤバイレベルだなと思った。

鏡を見ても体が明らかに曲がっていて、通常歩行ができない状態であった。

紹介で遠く1時間かけて都内の指圧とカイロプラクティックの治療院に通うこととなる。

皆が学校へ向かう時に逆方向へ向かって授業に行かず治療してということを繰り返した。

しかし、1ヶ月後のIH予選には出場できず、悪いことにその他の主力も骨折、肉離れとベスト4にも入れずに終わってしまった。

3人だけ残りWC予選に挑んだ、なんとか試合に出場することはできたが、足の痺れがひどく、未だサッカーボールが蹴れない状態(医学的にSLR陽性)であるがバスケットはSLR陽性でもそこそこできるのでサッカーじゃなくて良かったと思っていた。

体育の授業ではもっぱらキーパーをやっていて、キャッチしたらボールは蹴らずに転がしてと行った具合であった。

WC予選も最終的に県トップ4チームで行なったが4点差で敗れてしまった。

そこで高校生活引退となった。

やはり高校生で知識もなく、リハビリやトレーニングも確立されていない時代であった為怪我をしたことと、再発してしまったこと、長期間練習できないと別の体となってしまい、体力、シュートタッチ、全てが中途半端なまま試合に臨んでいた。

自分のような選手を出さないよう医学の道に進み腰痛で苦しんでいる選手のサポートができる仕事に進路を向けたいと思った。

ただトレーナーがいないような時代であった為どのような進路があるのかよく分からなかった。

治療に行っていた方の同級生に浪越徳次郎先生の息子の妻がいたので紹介していただけることとなり、入学試験を受験することにした。

その時期は精神的に怪我でメンタルが崩壊していた事、痛みが強く長時間椅子に座っていることもできなかったため、正直勉強に力を入れて受験できるような精神状態ではなかった。

その学校は一般教養と論文が試験であった為、論文はテーマを怪我した経験で語れるかと思い、さほど勉強せずに合格できたことはありがたかった。

12月で合格できた為その後はバイトと自動車教習所に時間をかけ、年を越したあたりからクラブチームで遊びのバスケットボールができるレベルは維持できていた。

自分の人生振り返ると、高校時代に怪我なくプレイできていれば、大学でもプレイできていたのかもしれない。

ただ大学で怪我をしていたのかもしれないし未来や他のケースはわからない想像もつかない。

しかし怪我をしたことで挫折し苦労したことで精神的にも成長でき、早い段階で将来のビジョンや進路を決められたことは良かった点である。その頃からあの時あーしておけば良かったな、など後悔だけはしないよう生きていこう、やることはやっていこうという脳はできたのかもしれない。

少年時代はここまで。

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