日本指圧専門学校を卒業するにあたって、やらなければならない事は就職活動である。
ただ私の就職活動はたったの1日で即決定した。
就職先は健康ランドのマッサージ
在学中に学生の皆、就職先を考え出す。学校の掲示板に就職情報が掲示される。
要するに卒業生の開業している治療院や学校が提携している治療院の情報である。
正直一つもピンとこなかった。
現在と違って平成初期は就職情報にも治療院の求人などはほとんどない。かなり厳しい状況であった。
新聞配達の奨学生として都内に一人暮らしであり、仕事の引き継ぎをした後は部屋も出なければならない。
どこに住むのか、どこで働くのかはとても重要になるわけである。
個人的にはバスケット(クラブチームレベル)をまだまだ本気で行いたい気持ちである。
学校の同級生(若社長)で、その方の父が昔女子バレー日本代表のトレーナーをして治療院を大きくした方がいて、店舗展開をしていた。
地元の健康ランド内に治療院をオープンしたとの情報が入った。
すかさず確認すると即決定となり、就職内定であった。
この時に運とタイミングで仕事が舞い込む形を知った。
というわけで実家に戻り、健康ランド内の治療院で働くこととなった。
ただし、勤務時間が夜勤務となり、18時から深夜2時という時間帯での仕事となった。
健康ランドのため、年中無休で土日は休めない。
平日に休む曜日を決めての仕事であったため、基本的に仲間と遊びに行く事はできない状態である。
夜勤の場合、バスケットの試合はできるのでそこだけは良かった点である。
ただし無理言って土曜日は休ませてもらった。バスケットの練習のためである。
やはり土曜日の夜はとても混むためバスケットが終わってから仕事に出ることも多かった。
完全歩合制のため、人数をこなさないと1日いてもお金にならない。
そんな給料体制であった。
この辺りも含めて健康ランド内の治療院で働けた事は自分自身の治療法のベースが築けたと思っている。
技術が上がると指名が増える、相手が満足するとリピーターとなる。
かなり追求して勉強し、自分のスタイルが確立できたかと思う。
病院勤務で得たもの
健康ランド内の治療院でおよそ2年半勤めた。
治療できる事は問題ないのであるが、夜勤のスタイルがどうしても生活のリズム、仲間とのリズムが異なるので、20前半として不満足にも感じていた。また、病院でのリハビリなども興味があり、求人情報を探していた。
市内の病院でスタッフの募集があったので、転職することにした。
病院に関する知識など全くなかったので、どういった病院なのかもよく分からないまま面接に行っていた。
当時はようやく携帯電話がで始めた頃で、ホームページといったものすらない時代であったため、今考えると自分自身ゾッとする行動であったと思っている。
面接に行くと、新聞配達奨学生の経歴はどこにいっても高く評価される。
苦学生ながら自分自身で学費を工面して根性がある。
また高校でのスポーツ歴も同様に高く評価されるポイントである。
即採用となり、就職できた。
この病院ではリハビリの助手という業務内容であるが、外来患者はほぼいなく、入院患者の対応となる。
しかも高齢者ばかり、痴呆症も多く、最終的にどこも転院させてもらえない終身病院と言われていることが後からわかった。
その頃は介護士という資格がまだなかった時代であり、リハビリスタッフが介護にあたる仕事が多く、身の回りの世話役としてヘルパーさんがいる。
病棟に看護婦(現看護師)とヘルパーとリハビリスタッフで回っていた。
理学療法士もまだまだ少なく、常勤の理学療法士は存在していなかった。
この25年で医療スタッフも大きく変化していると改めて思う。
我々の仕事は、筋力が弱って歩行ができなくなった方の歩行訓練、起立訓練、片麻痺患者の関節可動域訓練、入浴の介護、痴呆患者の徘徊の誘導、食事の際の移動、レクレーションの手伝いなど行なっていた。
この病院では多くのことを学んだ、現在の高齢化社会での介護問題の現実を早くに理解できた事は大きな財産となった。
そして、リハビリしてせっかく歩けるようになっても少し体調を崩してしまうと、しばらく寝たきりとなって元気になった時は再び歩けなくなってしまうため、ゼロからやり直しとなってしまう。
それだけ筋力が衰えることが早く、体調も急変してしまうこと、死と直面すること、全力でやればやるほど精神的なダメージが大きくなることも知った。
病院勤務はやりがいもあり、業務体系も当直はあるものの定時で帰れる事はバスケットをやる上ではかなり充実していた。
病院勤務をやめるきっかけとなった出来事として、理学療法士の方の計らいで防衛医大の脊髄損傷の方のリハビリ室の見学をさせていただける機会があった。
とても勉強になったが、次元が違う事、あん摩マッサージ師が病院のリハビリをする際に助手でしかないことをつくづく感じてしまった。
やはり、資格によって適任者が存在し、目指す方向性は異なっているのではないかと改めて考える機会となった。
その際にやはりスポーツに関わるために医学の道に進んだことを思った。
2年間勤めて病院からは評判が良かったため、退職を伝えた際にかなり引き止めていただけたが、自分の次の道を進むことを決めた。
そういってもどうすればいいのか模索しながらであった。
その間再び健康ランドの治療院に出戻りした。正直当てがなく、同級生に連絡したら人員不足であるから再就職できた。
整体(カイロプラクティック)の手技に惹かれて
再び治療院に戻ると2年経つと雰囲気やスタッフもかなり入れ替わりがあった。
そこで出会ったのが整体(カイロプラクティック)を行う先生であった。
腰は通常問題はないが、シビレがひどく、右足だけの痺れが両足痺れるようになっていた。
バスケット、老人介護と腰を使うことが多く、痛みや疲労は常にあった。
ある日かなり腰が辛い状態の際に、整体の先生が、治療してくれた。
その際にかなり楽になったことを覚えている。
高校時代にも整体に通っていた事はあったが、そこまで良くならない状態であった。
今回は1回の治療で通常の腰の痛みは良くなった。
ただシビレは一時的に改善するもすぐに発生はしていた。
ただその整体の技術に惹かれ、弟子入り状態となった。
同じような仲間が数名いたので、お互いに技術の練習に励んだ。2年間弟子入りし、技術を磨いた。
治療するにあたり、マッサージだけでは技術としては不足で、楽にすることしかできない。
そこから治療してお金を支払うことに満足してもらうためには整体(カイロプラクティス)などの技術は必要になる。
トレーナーとして活動して、どうしても良くならない場合や緊急でで痛みを取る際にこの技術が本当に役に立っている。
技術は短期集中で身につける必要があるため、時間が必要となる。
今の時代弟子入りという文化自体なくなっているかと思うが、このような時間の確保は私にとってはその後の人生に大きなプラスとなっている。
自転車を乗れるようになるのも短期間で集中して練習することで身につくと思う。
この際に神経と筋肉が結びつく。一度結びついたら、その感覚はしばらく行わなくても忘れなくなる、または元に戻る。
この頃はスポーツへの道よりも整体の技術習得の方がより強い思いとなっていた。
開業して得た経験
マッサージと整体の技術を身につけると、自信が湧いてきた。
これなら開業できるのではと考える。
当時は国家資格を取得して、皆の目標は独立開業することであったと思う。
自分もそのうちの1人であった。
開業したいという思いが増していった。
一軒家の賃貸を借りて1階を治療院の店舗、2階を生活スペースで開業した。
開業すると次は患者をどう増やしていくか考える。
バスケットをやっていたためバスケット関係の人がよくきてくれた。
またそういった経緯からバスケットの大会で無料の治療ブースを出したり、テーピングを巻いたりと自分の治療院を広めるため活動した。
市の講習プログラムでマッサージ教室も行った。
ようやくパソコンが普及してきたため、ホームページを作成したり、広告を作り配布し、それなりに努力していった。
食べていくには困らない収入は確保できるようになった。
トレーナーとしての始まり
高校の先輩でバスケットのトレーナーをやっている方がいた。
ジュニア世代の日本代表なども行っていたため、トレーナーとしてかなり知名度もある方だ。
そんな方が先輩にいた事は本当に大きなチャンスとなったし、トレーナーとしてのスタートする機会であった。
人手不足であるため、手伝わないかという事であった。
当時開業していたが予約制で行なっていたので時間を調整する事はできた。
全日本ジュニアの合宿があるから見に来るかとのことである。
府中にあるトヨタ自動車(現アルバルク東京)の体育館に早速行かせてもらった。
治療技術はそれなりに自信はあったが、実際のバスケットボールのトレーナーの仕事が全くの別次元であったので衝撃を受けた。
今まで学んだことが通用しないわけである。
何も知らないど素人と同じような状況であった。
バスケットの練習も佐藤久夫先生がコーチで指導にあたっていて、その質の高さ、厳しさ、全てにおいて衝撃的であった。
日本の高校生のトップがこれほど厳しく練習や生活態度を求められて活動しているのかと驚くことばかりとともに、本物のトレーナーという仕事に出会え、自分自身の求めていたものがここにあると興味とやる気スイッチが入った。
バスケ選手の通う接骨院で基礎づくり
先輩はすでに接骨院を開業しているため、現場と接骨院の掛け持ちであった。
やはり開業すると接骨院を中心にしなければならない事も多いため、現場に出れるトレーナーの人材確保、育成が必須であったのだと思う。
後輩であり、怪我をし、新聞奨学生でそれなりに根性もありそうで、医療資格も持っているという点でこいつならなんとかなるだろうと目をかけてくれたのかと思っている。
その思惑通り、開業していたため週に2日間の午後の診察に対して接骨院でサポートさせていただいた。
県内のバスケ選手が集まって来るような接骨院であったため、スポーツ患者が多く、特にバスケ選手が多く来ていため、とても勉強になった。
私の治療院は保険適応外なので学生はほとんど来ない、大人が多い。しかし接骨院はむしろ学生が多いため、学生の怪我に関してとても勉強になり、様々なケースを学ぶことができた事は、トレーナー人生でとても重要な経験となっている。
下積みの大切さ
私の場合20代では様々な仕事に関わっていった。
トレーナーとして本格的に活動し始めたのは27歳の頃である。
時代的にトレーナーという職業がまだまだ確立されていなかったこともあるが、それでも色々な医療の知識、経験ができた事はとても大きな財産となっている。
学生時代に新聞配達奨学生で医学の分野に携わることができなかったことも遠回りの一つの原因となっている。
学生の間に色々な仕事を経験しておく事は大切だと思っている。
医療の分野で活動するためには、20代は本当に勉強するべきである。
いきなりプロの現場に来ても技術や知識、経験もそうであるが、あらゆるシチュエーションでの対応ができないことが多い。
そのためにはしっかりと下積みをしてベースとなるものを築いてからプロの世界に入ることもありだと思っている。
実際に私はBリーグ(プロバスケリーグ)に教え子がその年によるが8名前後活動している。
その中には若い時に契約をさせて活動させたが、若すぎたため、契約を解除されているものもいる。
また現場で働くと時間確保とゆとりがないため、トレーナーの資格を受験しても不合格になるものもいた。
もちろんプロのトレーナーになるための要因として運やタイミングもあるが、まずはしっかり勉強し、あらゆるシチュエーションにも対応できるような努力と勉強するための時間を確保する事は忘れないでもらいたい。
そのためにはプロトレーナーとして活動できる場合、まずはアシスタントトレーナーとなり、上司の働き方をしっかり学び、その後自分のスタイルを確立していくことが成功への道だと思う。
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