チーム 日本代表2009-2011

【目標達成】医学の道から20年かかって初めての日本代表トレーナー

2020年3月19日

2009年に初めて男子バスケットボール日本代表のトレーナーとして選出され、東アジア競技大会に参加した。

 

日本代表トレーナーへ

18歳の時に医療の道へ進み、トレーナーとして活動した際に目標にしていたのが、日本代表のトレーナーである。

 

サポートスタッフとして全日本ジュニアやヤングメン世界大会での活動を手伝っていたが、正式なトレーナーではないため、今回ようやく目標にしていたことが現実となった。

 

一本の電話から即決を求められる

当時JBLは8チームで構成され、私はリンク栃木ブレックスのトレーナーを行なっていた。

その時はプロチームは北海道と栃木しかなく、企業チームが主体のリーグであった。

 

とある夏の日、その日は代々木第二体育館で東海大学とのプレマッチを実施するバスの移動中に電話が来た。

 

日本代表のトレーナーをやってほしいとのことである。

 

期限が今日までなので、今この場で返事をくれとのことであった。

さすがに今すぐとなると、プロチームのヘッドトレーナーをしていたので、さすがに無理である。

そのため、残念であるがお断りをし電話を切った。

 

プロチームの現場と代表チームの両立にはハードルが高い
JUNK TRAINER

 

一度は断ったが社長とヘッドコーチを説得した

電話で断りはしたが、なんとかならないかと頭の中を整理し、交渉する順番を考えていた。

やはり簡単には諦められない。

 

社長とHCに話して説得してみた結果

一度は断ったが、社長含め会社に交渉するので数時間待ってほしいと伝え了承を頂けた。

社長に電話し、事情を説明して日本代表のトレーナーの話を受けていいかと尋ねる。

 

チームのこともあり、そう簡単にはOKの返事をもらうことはできなかった。

 

そこでヘッドコーチ(当時トーマス・ウィスマン氏)に話をして了承をもらえるか確認した。

少し考えるも名誉あることだからやってもいいとのことであった。

 

こちらもチームにトレーナーの穴を開けないよう自分の代わりの代役を立てることを伝えたら理解して頂けた。

ヘッドコーチが了承して頂けたらかなりチャンスが巡ってくる。

 

プレマッチの後に社長と話し、ヘッドコーチの許可を取れたこと、自分の代役トレーナーを手配する条件のもと了承して頂けた。

かなりバタバタであるが、電話をもらって数時間後には日本代表のトレーナーを引き受けられる連絡ができた。

 

 

ビッグチャンスはいつ巡ってくるか分からない

大きな仕事の話は突然やって来て、即決しなければならないケースであった。

自分の行動と判断、会社の判断、ヘッドコーチの判断が速やかに行えたことはプロチームならではなのかと思った。

 

企業チームであると上司、部長、社長など判断するのにかなり時間がかかり、その日に返事という事態で却下されてしまうこともあるような時代である。

通常はいきなり本人に連絡が行くことはタブーとされている。

まずは会社に連絡が入り、日本バスケットボール協会(JBA)から招集要請の書面が来て、社長からトレーナーに話が来ている。

 

という流れになるのが筋である。

この流れがないことに社長がかなりお怒りになっていたことは今でも覚えている。

 

2日後には採寸のためナショナルトレーニングセンターへ

通常はJBAから書類が来てから動き出すのが当たり前であるが、書面が届く前に電話が来てから2日後には日本選手団用の採寸、写真撮影などのため、東京都赤羽にあるナショナルトレーニングセンターへ行っていた。

 

日本代表の重みを実感

この大会はバスケットボールだけではなく、オリンピックと同様で全ての競技での大会であるため、選手団としてスーツ、スーツケース、日本選手団用のウェア、シューズなど全選手・スタッフが同じもので揃えて行くのだ。

 

代表チームの練習をやる前にこのような形で国を代表するということの凄み、重みを感じた瞬間であった。

メディカルスタッフでのミーティングにも参加し、選手村やメディカルブース、ドーピングや医療体制などの説明も受けた。

 

プロチーム初めてのトレーナー

日本代表の歴史の中でプロチームからの日本代表トレーナーは私が初めてであった。

 

今までの代表トレーナーのあり方

トップリーグであるJBLのチームは企業チームがほとんどであったため、これまで日本代表のトレーナーはトップチームから選出されていない。

理由はチーム優先であるため、日本代表の活動に際して、全て対応できないことである。

 

そのため、歴代のトレーナーは大学のトレーナーが任されることが圧倒的に多く、そのような構成をされていた。

まだまだそのような時代であり、ストレングスコーチも日本代表では存在していなかった。

 

多分私に話が来たのも、メンバーの締め切りギリギリで誰もやることができなかったために、話が来たのだと思う。

通常企業チームでは対応できないことが当たり前であって、プロチームであれば融通が利くのではという考えであったのかもしれない。

 

何れにしても話をいただける立ち位置であったこと、運やタイミングが味方した。

この辺りはプロチームの契約と同じような形である。

 

チームの穴は自分で補う

さて、問題なのはシーズン中にある合宿と大会期間のトレーナー確保である。

幸い教え子や同僚、友人でそれなりのキャリアのあるトレーナーがいたので全ての日程を補うことはできた。

 

費用はもちろん個人負担である。

トレーナーの日当と交通費を合わせると結構な金額になる。

 

日本代表の日当は名誉職であるためご飯を一回行ける程度である。

大幅な赤字である。

 

1年目の名誉職

活動すればするほど出費が増えるので厳しい限りであるが、トレーナーとしての目標であり、日本代表トレーナーになれば良いわけでなく、良い仕事をする必要があるわけだ。

 

そのため金銭よりも名誉ある仕事をできる喜びとプライドを持って関わるという気持ちを持って仕事をさせていただいた。

 

2009年のヘッドコーチは当時日立でヘッドコーチをしていた小野氏、アシスタントコーチに北海道の金田氏であった。

小野さんは月間バスケットボールで見ていて私がバスケットボールを始めた時の日本のポイントガードであったから憧れの方である。

 

このような方と一緒のチームで仕事ができてとても光栄であった。

 

金田さんは大塚商会、栃木と3年間一緒のチームで活動した戦友であったため、再び一緒に仕事ができること、また知っている人がチームにいることで安心感があった。

 

その他のスタッフも素晴らしい方ばかりで、とても勉強になり良い刺激をもらって活動できたことは誇りに思っている。

 

トップアスリートのための施設

日本のアスリートの聖地となっているナショナルトレーニングセンター、その隣にあるスポーツ医科学センター、宿泊施設など全てが整っている環境でバスケットボールに関わることができとても光栄であった。

 

ナショナルトレーニングセンター

全ての扉にセキュリティがかけられ、防犯カメラが設置されている。

バスケットボール専用コートもあって練習も全てビデオ撮影もできる。

 

食堂のビュッフェ形式で好きなものを組み合わせて食べられる。

洗濯もいつでも行える環境であるので大変便利である。

 

部屋はツインでの使用が多くかなり気を使わなければならない点は厳しいが、海外遠征ではほぼツイン部屋となるため、仕方がない。

日本のようにシングルの部屋は海外では珍しい。

 

ホテルが選手村となるため、ほとんどツインとなってしまう。

売店や自動販売機はあるがメーカーがスポンサーのみで構成しているため、この辺りは品数に制限があるので、どうしても飽きてしまう。

 

とは言ってもコンビニまで歩くと結構な距離のため、めんどくさい。

ネット環境も整っているのでほとんどは不十なく生活できるのでありがたい限りである。

 

スポーツ医科学センター

各競技団体によって活動のエリアが決まっている。

医科学センターにはトレーニング施設、プール、リハビリ施設、診療所などなどの設備が充実している。

 

我々トレーナーは選手と一緒に診療所やリハビリに行くことが多い。

こちらには宿泊施設や食堂もある。

 

ただしこちらの宿泊施設は個人的には好きではない。

かなり狭い部屋に押し込められるような感覚で、毎日練習し、独房に入れられて監禁されているような感覚になる。

 

結構メンタルがやられるわけである。

ちょっとした作りやスペース、壁紙などで感覚が違ってくるから不思議である。

 

何れにしても日本トップの設備の環境で練習できることは勉強になるし、良い経験であった。

 

シーズン中の合宿

レギュラーシーズン中に合宿がある。

土日試合して、そのまま日曜日にナショナルトレーニングセンターに入る。

 

月曜日は通常どこのチームもOFFであるが、朝から集合する。

午前中は撮影やミーティング、個人練習の時間となる。

 

午後からチーム練習でがっつりと練習を行う。

火曜日も午前と午後の2部練習をして、水曜日の午前中練習して、解散となる。

 

かなりハードで翌日からチームの練習に合流する。

体力的にかなり疲弊する。

 

まず日本代表というプレッシャー、緊張感だけでも疲労する。

そして選ばれた選手の寄せ集めなので、通常のチームとは勝手が違う。

 

自チームの選手は今回選考されていない。

代表だとドリンクの準備もトレーナーの仕事となり、通常よりも業務の範囲が広い。

 

また代表でも審判を行なっていた。

とは言っても意外と体力はある方であり、そもそも日本代表でもしっかりとアジャストできるようにイメージと準備をしていたので疲れはあるもののしっかりと対応できた。

 

まぁ疲れよりも嬉しさ、やりがいの方が大きいためその場では問題はなく対応できた。

帰宅の電車では爆睡となっていたのは事実である。

 

新幹線だとすぐについてしまうこと、乗り継ぎもあり在来線で宇都宮まで帰る方がリラックスできたのである。

 

東アジア競技大会


リーグ戦の最中に大会があったため、土日リーグ戦で試合をしたまま、東京のホテルに集合して日本選手団として出発した。

早朝ホテルから直接バスで空港までいき、日本選手団のチャーター便として香港に向けて出発した。

 

香港での国際大会

自分自身が国際試合に正トレーナーとして参加することが初めててあったため全てが新鮮であった。

一番感じたのは国体の東アジア版なんだなという感覚である。

 

バスケットボールの選手は同じホテルに宿泊し、同じものを食べ、同じ試合会場に向かう。

ホテルが選手村になるわけだ。

 

ホテルはやはりツインである。

同じ部屋にアシスタントコーチの金田さんと一緒であった。

 

この辺りは付き合いが長いので良かった点である。

時代から海外はホテルのwifiなどまだ発展していない。

 

LANケーブルでネットを繋ぐのであるが、これが海外は有料となる。
お小遣い程度の日当に対して、ネットを1日使うとそもそも給料が水の泡である。

 

ただでさえ代役で赤字なのが増すばかりである。

開会式は船上で行われた。

香港は夜景が綺麗で有名なので、船上になったのであろう。

 

ただ船はやはり揺れるので選手の体調がとても心配であった。

ずっと立っている開会式よりはよっぽど良かったのかと思う。

海外で問題なのは氷の手配が難しいこと。

 

これはどこに言っても苦戦する。

日本のようにコンビニでロックアイスが売っている国などまずない。

 

ホテルでは各チームが氷を使うため、氷不足となる。

よっていかにスーパーで買えるところ見つけるか、他の国のチームに取られないよう確保するかだ。

 

文化の似ている韓国との争奪戦になることが多い。

 

韓国チーム勝利

大会はリーグ戦後に決勝トーナメントの形が国際大会では一般的だ。

初戦の相手は韓国である。A代表ではなく若手でのメンバー構成であった。

 

韓国のプロリーグKBLは毎年のように観戦しているので選手は全員知っているし、どこのチームに所属しているのかもわかっている。

どういうプレイスタイルなのかもわかっている。

 

多分韓国チームに関しては誰よりも情報を持っていたと思っている。

韓国の監督はチョ・ブヨン氏でヤングメンでも監督で通常はキョンヒ大学で監督をしている。(韓国ではヘッドコーチのことを監督という)

 

韓国遠征に行った際、一緒に食事をしていたこともあり、田渡先生と仲が良かったので名前を出したらすぐにわかってくれた。

日常会話程度なら韓国語を話せたことは役立った。

 

そんなことから韓国はトレーナーが帯同していなかったので、韓国チームのアシスタントコーチに選手の膝のテーピングを巻いてほしいと依頼があった。

 

たまたま韓国チームの前の試合であったためどうしても対応ができないことを伝えたら理解してくれた。

不思議なものである。色々な経験をした。

 

個人的には日本代表のトレーナーになって韓国に勝つことが大きな目標であった。

同じグループに韓国がいる。初戦の対戦相手が韓国となった。

 

韓国は当時かなり強くA代表では13年間勝利していないほどであった。

お互い若手選手構成であるが、なんと韓国に競り勝ってしまった。

 

個人的な目標が初戦にしてなしてしまった瞬間であった。

ただしその後韓国には一度も勝てていなく、現在の日本はA代表で2020年の今でさえ韓国に勝てていない。

 

中国に勝ち3位

我々日本は予選リーグ1位通過、韓国は2位通過出会った。決勝トーナメントの準決勝で再び韓国との試合となった。

韓国は試合を重ねるごとにチーム力がみるみる増していき、うまいバスケットで最終的に競り負けてしまった。

 

3位決定戦は中国との対戦であった。

中国に競り勝つことができ3位で勝って大会を終えられた。

 

優勝は韓国であった。韓国のバスケットは見ていて面白い。

予選と決勝トーナメントでいかに戦略など温存しておけるのも勝負に影響することを身にしみてわかった大会であった。

 

まとめ

初めての日本代表トレーナーとしての仕事、対応、経験など得られることは果てし無く大きかった。

自分自身初めてでも、事前にイメージできていたこと、海外遠征を想定して、様々な国へ行っていたことなど全ての経験を活かせたと思っている。

日本代表トレーナーになって一番変わったのは、自分ではなく、周りの対応だったことには驚いた。

今までJBLのリーグではあっても何もないような方でも、いざ日本代表のトレーナーになってからは特にJBAのスタッフの対応が変わった。

肩書きがつくことで周りが変化するのだなと思った瞬間である。
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