チーム 大塚商会アルファーズ2004-07

【社会人チーム】業務委託トレーナーとしての大塚商会アルファーズ

2020年2月28日

実業団チームからの昇進でJBL2に

私が大塚商会アルファーズに関わったのが2004年から2007年の3シーズンである。

その前年度は関東実業団リーグに所属し、そこで結果をだしたことで、上のJBL2というリーグに参戦することができた。

 

メモ

バスケットボールはそれまではプロチームが存在していなく、日本トップでも企業チームのリーグであった。

実業団リーグでバスケットボールができるのは、ほんのごく一部の選手のみと狭き門であった。

 

 

そのため、バスケットボール選手はほとんどが一般就職をして、仕事をしながらバスケットをやるというスタイルであった。

大塚商会も同様で、もちろん仕事が本業で仕事が休みの土曜日を使って練習していた。

 

JBL2に昇進することが決まり、選手もトップ選手をたくさんリクルートし、部員自体は多くなり、登録できない選手も出た事は言うまでもない。

実業団リーグだと選手が仕事で土日の試合に出場できるか、各会社でも起こるため、選手の登録は多く、部員はそのため、多くいた。

 

もちろんスタッフもかなり多く存在していた。

実業団リーグだとその当時トレーナーは不在のチームが多く、なかなかバスケットボールのチームのトレーナー自体が少なかった時代である。

 

大塚商会もJBL2に昇格する事で、トレーナーの必要であるという事で、私が現場を担当することとなった。

会社との契約での外注の業務委託という形となる。

 

私も社会人チームのトレーナーが初めてであったこと、チームもJBL2という本格的なリーグに初参戦ということで試行錯誤という進みとなった。

トレーナー兼ストレングスという形での関わりとなった。

分裂する考え方の違い

チームとしてJBL2に参戦するにあたり、戦力として新たに7名の新卒選手を獲得した。

これは前代未聞のレベルのリクルートであった。

 

会社内チーム内での温度感

一般的にはどのチームも多くて2名しか新加入はしない時代であったため、大塚商会が本気で上を狙っていると話題になっていた。

チームとしては今までの関東実業団チームで行なっていた社員を「旧人」と呼び、新たに加入した新加入選手を「新人」と呼んでいた。

 

私としては大塚商会の社員でもない外部の人間なので、その辺りの空気感はなかなか感じ取れなかった。

 

その年ヘッドコーチを引き受けてくれた方も外部からの委託でのコーチのため、社員ではない内部的なことがわからないとよく2人で話したり、食事をしていたことを思い出す。

 

正直今までのスタイルがサークル的な要素も強かったため、自分自身もかなり戸惑った部分はある。

さらに「新人」はバスケットをするためにこの会社に入社したため、仕事よりもバスケットの思いが強く、練習のクオリティーや質、練習日数なども不満が多かった。

 

何より選手は営業マンが多かったため、「旧人」は平日の練習に参加することができず、人数が揃わないため、かなり不満が多かった。

仕事メインで週3回の練習

「新人」も研修が終わり、6月から配属部署が決まり、いよいよ本格的に仕事になると来れない選手もちらほらと出てくるようになった。

平日は4〜6名で良くても3on3までしかできなく、ひたすら個人練習となる。

 

3年間で3回であるが、選手が誰も来れない日を経験した。

 

水曜日は会社として早く帰宅する日と位置付けられてはいたが、それでも8〜10名でギリギリの感じで練習をおこなっていたことを覚えている。

 

1年目はよく人数不足で一緒に練習を参加したこともあった。

 

土曜日はそれなりに人数が集まるので練習はできるが、やはりバスケットは継続して練習するからこそチームプレイの質も高まってくる。

 

土曜日のみではチーム作りは難しい限りであったかと思う。

これはトレーニング関しても同様である。

 

「新人」は平日も練習でき、さらに体育館が使えない日はジムでトレーニングを行なっていたので、身体は仕上がるが、「旧人」は練習はもちろんトレーニングも行えないので、その差は開いてくるのは仕方がない。

選手のケアは仕事の疲れ

大塚商会でのトレーナーとしての仕事は、練習前の準備、テーピングやストレッチ、ウォーマングアップ、審判、モップがけ、トレーニング、練習後数人のケアといった流れである。

体育館の利用時間にも限りがあり、初年度はケアすらできない環境であった。

 

合宿や遠征時にケアを行う形となっていった。

プロチームとは違い、まず練習ができないので仕方がない点は多い。

 

2年目以降は部室ができ、ケアを行えるようにはなったが、そこまでケアを練習後に行うという習慣はなく、遠征先でケアをすることが多かった。

遠征も基本遠征先ホテルに現地集合で、必要な者が行う程度、まだまだ選手は飲みにいってしまうような文化であったことは事実である。

 

トレーナーも会社の仕事はある程度理解していったので、仕事の疲れを取るためのケアという形が多かったと思う。

オフのないサラリーマン

平日は出勤し、夜バスケットの練習、夜中に帰宅して、再び翌朝満員電車で通勤して、の繰り返しである。

仕事が休みの土日で練習することも多いため、選手は休みがない状態での活動となっていく。

 

他のチームも同様の条件で行なっているので、今のプロチームはそれだけでもかなり環境は良くなっていると実感できる。

 

そして、バスケット界も2005年(大塚商会2年目)にbjリーグが誕生し、プロの組織も誕生した。

 

これによって、JBLとbjの2分裂化が始まった。

大塚商会でも多くの選手が、退職しbjリーグのプロ選手となり、活躍していたことはいうまでもない。

 

またチームのスタッフもマネージャーといっても仕事で来れないため、アルバイトマネージャーなども外部の人間が増えたこともある。

企業チームで働きながら選手を行う大変さ、チームによってトレーナーの関わり方も大きく異なり、会社の理解をして対応しなければならないことも学べた。

 

3年間このチームで関われたことはプロチームでのトレーナー活動の基盤を作ることができ、貴重な体験であった。

 

bjリーグができたことでJBLにも変化が出てJBL2をなくしてJBLの一つのリーグにするという方針が出た。

 

この方針は結果的に実現されずそのままの形でJBL2は残ったのであるが、大塚商会として会社に審議の判断からチームを休部するという形となってしまい、3年間での活動となってしまった。

 

その後チームは実業団リーグに戻っての活動となったが、再び昇格し、現在はB2リーグの越谷アルファーズとして変化している。

大塚商会の選手はその後、栃木にプロチームを設立し選手の受け入れ体制を作りチームの権利を場としている。

 

それが現在の宇都宮ブレックスとして大きく進化している。

また北海道も新規プロチームとして選手を確保したかったため、北海道に渡った選手も数名いた。

 

大塚商会はそのため、会社に残り実業団リーグで活動するか、北海道のJBLでプレイするか、JBL2の栃木でプレイするかの3択となった。

その際トレーナーの私も選択に迫られ、栃木でトレーナーを行うことを決めた。

大塚商会アルファーズの休部から

大塚商会アルファーズの休部が決まり、誕生したのが栃木ブレックスである。

チームの権利を栃木に譲渡し、スタートした。

選手は栃木と北海道のプロチームに移籍するものと、大塚商会に残るものと3択となったことは事実である。

 

 

 

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