JBL2で優勝し、新シーズンJBL2008-2009年のスタートとなるにあたり、戦力確保として大幅なチーム編成の改革が行われた。
大幅なチーム編成
まずスタッフ構成が変更となった。
ヘッドコーチ、マネージャー、通訳、トレーナーの4名からヘッドコーチ、アシスタントコーチ兼通訳、マネージャー、アシスタントマネージャー、ヘッドトレーナー、アシスタントトレーナーと6名になり、2名スタッフも増員された。
ヘッドコーチには能代工業から加藤三彦氏が任命された。
選手の大幅な補強
初めてのJBL参戦
今までJBL2で4年間の経験があり、4年目にして優勝することができた。
JBL2でのレベルではトレーニングと身体能力などイメージできたため、選手の強化はイメージできた。
JBL2とJBLでは別世界で未知の領域
自分自身まだ経験していない領域であったため、探りながらの状態となった。
正直感じたことは日本のトップレベルの選手の身体能力は自分が想像していた以上に優れていたこと、体が細くてもコンタクトがとても強いこと、見た目では判断できないことなどとても勉強になった。
選手のケアに関しても、当時感じていたことは、日本でトップの選手がいきなり集まったこと、怪我をさせてはいけないプレッシャー、この選手たちは何千万も稼ぐ足だからと、必死であったことは今でも覚えている。
トップ選手は各自個性があり、良い意味で自己があり、こだわりを持っている。
選手に対して対応能力はこの年にかなり身についたと思っている。
いかに納得させて、行動させるかという点でとても考え、研究し、段取りを考え、準備して、起こりうるケースを想定し取り組んでいたと思う。
それが自分自身のキャリアに大きく影響している。
自分自身のスキルアップと成長
選手にも様々なタイプがいるが、私が好かれる傾向にある選手のタイプはやんちゃなタイプとなった。
筋が通っていないと対応させてくれない、というような点があるので、この辺り段取りとアポをしっかりとって先手で対応しなければならない。
普通のスタッフはそこまで考えないので、何かしらトラブルとなる。要するに神対応できるか、できないかの差である。
この辺りは常に考えて対応するようにしていたし、何より自分自身の成長となった。
こう言った選手はどのチームでも影響力を持っている。
そのため、別のチームになった際に選手から話を頂ける。
これはとてもありがたいことである。
私のようなトレーナーという仕事は、選手あっての業務であるため選手から信頼されると話が来ることが多い。
トレーナーは特にチームスタッフでも特殊な位置にある。
GMや社長は医療系には強くないので、選手に確認することが多い。
この時に選手からあのトレーナーいいですよ。
と選手に確認するわけである。
毎日がメディアだらけの練習
チーム名も栃木ブレックスから冠スポンサーの名をとってリンク栃木ブレックスと変更された。
8月に電撃的に田臥選手のチーム合流が決まり、連日の報道陣が体育館に押し寄せた。
彼とは2001年ヤングメン世界選手権の時にサポートトレーナーをしていたので同じチームとしては今回が2度目となる。
初めて体育館に来た時にスタッフのことは知らなかったようで「水野さんいてくれて助かります」といってもらえたのはありがたい限りであった。
日本でプレイすることが久しぶりであるため、バスケ関係者含め、衝撃的であったと思っている。
そのため連日報道陣がひっきりなしに訪れた。
コートサイドが報道陣でいっぱいでラインテープで囲みを作り、毎日がパニックであった。
その時広報の担当もいなかったため、よくメディアの誘導を行なって、ガードマンのようになっていたのを覚えている。
毎日が刺激的で勉強の連続
プレイもレベルが違うバスセンスで毎日が刺激的でとても勉強になった。
そのためバスケットは下手であるが、見る目はかなり強化されたと思う。
彼らのトップ選手の練習を間近に見れ、しかも毎日審判していたので、本当に細かく手足の使い方を見ることができたのは勉強になった。
審判をやると目を光らせて細かく見なければならない、審判はゴール下から見るので、観客の応援の位置とは異なり、ダイレクトなドライブの仕方など直視できる。
普通ではわからないちょっとした身体の使い方を観れたことは本当に良かったことだ。
この辺りの身体の使い方に関しては川村選手は本当に勉強になった。
ファールをもらうテクニック、細いのにコンタクトがとても強い、ボールをもらうまでの身体の使い方、スクリーンの使い方など、天才肌であるし、今まで観た選手の中でもトッブだと思っている。
シューティングのリバウンドから得れるもの
選手のリバウンドはボールを取っているうちに、どこに落ちるのかもわかるようになってくる。
選手によってもリバウンドでのボールの落ち方が異なるわけである。
数々のシューターのリバウンドを経験し、トップ選手と直接関われることはとても勉強になり、バスケットをコーチする方々にはぜひ間近で見る経験をしてもらいたいと思っている。
JBLの現実
まだまだ創設2年目、ヘッドコーチも含めスタッフはJBL初体験、こういうところが大きく出たシーズンであった。
外国籍選手の獲得も経験値不足で決してすごい選手は獲得できなかった。
毎日がミーティング
コーチも高校からトップ選手となり、勝手がいかなかったと思う。
世代間のバスケットの違いが指導にも大きく影響した。
毎日のように午前中はミーティングの日々である。
コーチで解決できずにマネージャー、トレーナーも加担する。
昨年DFのドリルを担当していたこともあり、私が練習メニューを考案し、実施することもあった。
こうなるとチームとして、勝ち星を増やすことはできなく、負のスパイラルになっていく。
日本人の体質として特に男子では納得しないと動かない、理不尽な練習や戦略は選手に通用しないわけである。
個人的にはヘッドコーチと一緒にできたことは本当に勉強になった。
能代工業がなぜ強かったのかも理解できた。
素晴らしいものであったと思っている。
ただ他のスタッフも未熟であったために十分なサポートができなかったことが本当に申し訳なく思っている。
可能であれば再び一緒のチームで仕事ができれば、今度は良い仕事ができ、バックアップ体制を作れると思っている。
スタッフも何も知らされていなく、突然起こり、報道されたわけである。本当に厳しい世界だと改めて考えさせられた。
シーズン途中で指揮官変更
今では当たり前であるヘッドコーチ解任。
まだまだそのような決断を出すチームは少なかった時代である。
それでもチームの発展のため、ヘッドコーチをトーマス・ウィスマン氏に託すこととなった。
いすずやJOMOを優勝に導く実力者であった。
ヘッドコーチが外人というのも初めての経験であった。
彼とはいすずが休部となり、ギガキャッツというクラブチーム時代に関東大会で対戦している。
松島ウォーターブラウン選手が来日したばかりの時にマッチアップした経験がある。
結果はもちろん我々が負けである。
ハイレベルなバスケットへ
彼が来たことによってピースが埋まったかのように、スタッフの仕事はスムーズとなり、機能し始めた。
シーズン途中の12月上旬からの合流であった。
3時間練習を行なったこともあり、平均2時間半は毎日練習し、かなり強度の高い練習となったため、選手のケアに追われる毎日となったが、チームを基礎から徹底的に作り直したわけである。
彼との出会いはその後の人生で大きく変わる出来事であったと思っている。
当時では高水準なバスケットであったと思う。
戦略戦術も今まで疑問に思っていたことも全て解消でき、練習が面白く、チーム作りの基礎と、その時その時に発する言葉を毎回の試合前のミーティングから学んだ。
選手を前向きに戦わせるための言葉がとてもモチベーション向上となり、勝利を重ねていけた。
最終的にはそれまでの黒星が多かったため、プレイオフに進出することはできずレギュラーシーズン6位という結果で終了した。
変動の一年であった
この年はオールスターも宇都宮で実施され、私もトレーナーとして関わることができ、本当にたくさんの喜怒哀楽の経験をすることができた。
プロチーム2年目としてはチームの評価は高く、個人的にも本当にやりがい生きがいがあった。
経験を積み重ねて自信へと変わっていった
実際にJBLという舞台を経験し、得たことは大きく、この一年の経験が自信となって翌年に生かされたと思っている。
自分自身この年の経験が本当に人生の分岐点となったと思っている。
プロとしての役割、プロトレーナーとしての意識なども大きく変化したと思っている。
今までよりも選手に対する考え方も含め、「怪我で引退を決断させない」というモットーが完成した年である。
トレーナーにとって知識と経験がとても大切であり、さらに事前の準備ができるとあらゆるケースに対応できることを身にしみて学んだシーズンであった。
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